SFとしての『蟹工船』
今日は募金活動をお願いしていた団体への挨拶回りに行きました。通勤時間帯の電車の込み具合を計算入れていませんでした・
昨日の西日本新聞辺見庸氏のエッセイが掲載されていました。標題のようなものでした。
「会合で大学にいく途中、ラーメン屋でギョーザ定食(月曜特価330円)を食べた。たまたま相席になった学生二人は、それにラーメンをつけたセットメニュー(同510円)をズルズルかきこんでいた」学生の会話です。
聞き耳をたてた。話のはしばしからテキストが小林多喜二の『蟹工船』であることはわかった。声をひそめてかれらはいう。「あんな船、まじ、あったの」「クソツボとかいっぱいでてきて、きったねえし」「現実感ないよな。けど、ひっかかるよな。おっかねえ・」「また、ああなるってこと? 」「わっかんねえよ」 テーブルをはなれぎわに一人がつぶやいた。「SF みたいだよな・」。
「・・墨とべにがらとをいっしょにまぜてねりつぶしたような、なんともいえないほどのものすごい色で一面染まっている」。多喜二の遺体を見た作家、江口渙の文である。みごとな直喩に、学生だった私はこころを染められた。おびえふるえて、「墨とべにがら」ということばの混色を、まねたくても絶対にまねたことがない。1933年、特別高等警察による拷問で、逮捕即日になぶり殺された多喜二のからだの内出血が、どれほどまでに凄惨であったか、「墨とべにがら]の混色はつたえている。
辺見氏も書いているが『蟹工船』の思想を広めたくて、本屋は売っているわけではないでしょう。そんな時代だったら、もう少しはましな時代になっていると思います。ブームにのって出されている本を見て、30年前に読んだものと同じものでした。それだけ蓄積がないのだと思います。それで選挙に有利などとユメユメ と思うのですが

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