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「形骸」になって

今日は図書館に行った。図書整理のために2週間程度休みのために、借りられる期間が通常の2週間からひと月ほどになります。そこで、いつもより多目に借りろうとしたのですが、辺見庸氏の名前が出てきません。書棚の作家名一覧を見ようとしたらすぐ傍にありましたので、思い出せました。大分 危うくなってきました。『自分自身への審問』から

辺見氏も脳卒中ですが、作家の江藤淳も脳梗塞になり、後に自死します。自死の原因についてはいろいろと言われましたが・・。

辺見氏は

「身体に障害をもつに至ったぼくが、こうしたことを四六時中考えているわけではありません。それどころか、もう少し身体の不如意がどうにかならないか、麻痺がなくならないか、うまく歩けるようにならないか、と情けなくなるほどいつもいつも念じています。のべつ再発の可能性にも怯えていますし・・。毎夜溺れるように眠り、未明に目覚めると、あまりに大きな不安と恐怖と悔恨にこもごも襲われて、声を奪われたみたいに泣きも叫びも呻きもできずに、ただ骸のように仰向いているだけです。思想や哲学どころではないといえばそうなのですが、思念のほうはぼくのいくじのなさとは別に勝手に動いているのも事実です。死や自死についてこれほど多く考えたこともありません。
入院中には、脳梗塞の末に自殺した江藤淳の書き置きについてもひとしきり考えたもの
です。彼は「心身の不自由が進み、病苦が堪え難し。去る六月十日、脳梗塞の発作に遭い
し以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、
これを諒とせられよ」という言葉を残し、吉本隆明をはじめとする人々 が、死に際がすっきりした人だとか、遺書はさすがに名文だとか評価したのです。一九九九年の七月のことでしたね。当時、ぼくは別して好きな物書きではなかったということもあり、必ずしも強烈な印象をもちませんでしたが、勝手なもので自分が脳出血で倒れて心身の不自由に遭ったら、いまさらのように江藤淳の自裁と言葉が、無論、評価するとかしないというのではなく、何だか身体的にとても切実なものになりました」そして、形骸という表現について
「変な表現ですが、哀しくも底暗い衝撃をいまでも受けています」

もう少し歩けないかと思い、新聞に載るイベントに行けるのにと思ったりしますが、収入がないのに交通費がかかるのだとか、今まで考えたこともなかったことにとらわれます。それでも、あきらめられないのは、社会との関わりが日々希薄になっていくように思えるからです。ずっと、働き、収入を得ることが役割だと思ってきて、子どもとの関係などもあまり考えてきませんでした。それが、働くことが免除されますと、アイデンティティのありかをもがきながら探し始めました。手足のしびれや痛みが続くと、心が折れそうになることもあります。それでも、生きているということはこういうことかもしれないとも思うのです。

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